僕はどのように日本文化を発見したのか、どうやって日本語を勉強したのか、なぜ日本で働き住むようになったのかを今日紹介したいと思います。
どこから始めればいいのか悩みましたけど、「第一日目」からでもいいかなと思いました。この記事を幾つかのセクションに分けてみました。
僕はロンドンのイーストエンドで生まれ育ち、両親は中国系マレーシア人だ。幼かった頃は、両親が一日中一生懸命働いていて、とても大変な時期だった。親は家計をやりくりするのに忙しく、僕をいろんな家に里子として出すことになり、僕は子供時代のほとんどを里親の下で過ごした。里親の家ではひどい扱いを受けたこともあったが、両親もまた、お金や他の問題を抱えているのを知っていたので、僕はどうこう言う訳にはいかなかった。結局、僕は白人、黒人、そしてインド系の里親へと渡り、永遠に続くかのような長い時間をそれらの家で過ごすことになった。
不運なことに、ある里親は、彼らの子供達の僕に対する日常的な虐めを黙認しながら、僕の服を奪っては自分達のものにしてしまうような人達もいた。僕みたいな親がいない子供はさぞ虐め易かったのだろう。
彼らの家では、僕は迷惑がられ、出来る限り居心地を悪くさせられた。とある晩、帰宅した際に玄関のドアが開けっ放しになっていたという事件があった。家は滅茶苦茶に荒らされていて、空き巣に入られた事が分かった。僕は怖くなって泣き始めたら、その里親の家の年長の子供に「なんでお前が泣いているんだ!?ここはお前の家でもないくせに!」と怒鳴られた。
他に記憶に残っていることは、目に赤い斑点ができる程首を絞められたことだ。翌日、学校でその事について尋ねられた時は、手を滑らせてコップの中身が目に入ったと言うくらいの言い訳しか思いつかなかった ^^;
もう一つ忘れられない出来事は玩具のレーストラックでぶたれた事だ。僕がぶたれたのはゴム製でオレンジ色の線が中心を通っていたものだが、だいたいこういった感じの玩具だ。殴られた後は鏡の前に立ち、その鏡に写っていた緑色のジャンパーを着ていた自分の姿や殴られた箇所に出来た鮮やかな赤色の痣など、今でもはっきりと憶えている。
唯一、普通の生活に戻れたのは両親と過ごせる数少ない週末だった。週末になると父が僕を迎えに来てくれて、そのまま父と過ごすか、母の元に連れて行ってくれるかだった。しかし、時々父は仕事に忙殺され、僕を迎えに来れない日もあった。そんな時は、里親から父からかかってきた電話を渡され、その旨を聞かされた。電話を切った後は、僕はドアの上の小さな窓から外を眺めながら、階段に座り込んでよく泣いていた。僕は学校に行く時以外は一人で外に出ることを許可されていなかった。なので僕はベッド付の小さな倉庫みたいな自室に戻ることしかできなかった。あの頃、僕の唯一の友達だったバック・ロジャーズが彼の相棒ロボットのツイッギーと一緒に訪ねに来てくれたらなぁ、などと言う夢をよく見たものだ。
僕の子供時代は登校 > 帰宅 > 食事 > 時折テレビを視聴 > 自室に戻る、のパターンの繰り返し。
日本アニメを初めて見たのはガッチャマン(イギリスでは「G-Force」とも)だった。当時はこれといって重要だった訳ではないが、それが日本アニメだと知ったのは後の事だった。
上の写真は僕がある里親の元で暮らしていた時のものだ。学校でも楽しくない時間は続いた。あの頃の記憶と言えば、砂利の上を引きずられたり、袋叩きにされたり、持ち物を燃やされたり、フットボールの時間には常に顔を狙われたり、僕はここでも常に虐められていた。学校の校庭で図体のデカい輩に「もし俺がこのバットでお前の頭を殴って殺せば、俺は刑務所行きになるだろうが、その価値はあるぜ。」と脅された事もある。また、そんな奴に自分を殴るようにお願いして、手下にしてもらう事もあった。
感情を伴う記憶は脳がそれを長く保持しようと、その場で化学物質を放出するので、思い出しやすくなるらしい。人間もこの関係で喜び、悲しみ、恥ずかしさを覚える経験を簡単に思い出せるのだ。
皆さんが自分の子供時代を振り返れば、多くの記憶はそういった感情がミックスしたものだと思う。しかし、僕の子供時代には幸せだった記憶はない。唯一の例外はまだ両親と一緒に住んでいたクリスマスの頃、Blurton Road Hackneyにあった家のリビングのクリスマスツリーの前で、一家団欒していた事だ。
子供時代の頃を思い出すとかなり落ち込む時期もあったが、もっと辛い経験をしてきた他の子供達の事を考えると、自分はまだましだったと思えるようになった。
人生のどの時点だったかは正確に憶えていないが、僕はある時から再び両親と一緒に暮らすようになった。僕が引っ越すまで、2、3年は父と、その後は母と一緒に住んでいた。上の写真は去年母と撮ったものだ。僕は母が大好きなのでもう公営住宅に住まなくてもいいように、どこかに家を買ってあげたいのだが、彼女は絵に描いたような頑固者で、僕が家賃を支払う家ではなく、自分の家が欲しいのだそうだ ^^;
僕は2009年には破産寸前の危機に見舞われたので手元にはあまり資金はないが、最近はほんの少し持ち直してきた。とはいえ、母に家を買うとなると今ある貯金を全て使い果たす事になり、キャッシュフロー不足で会社の経営も困難になるので現状では難しい。
僕は自分と同じくカイリー・ミノーグが大好きな仲間達と出逢うことで、学校外で本当の友人を作り始めるようになった。BBCやカイリーの録音スタジオのStock AitkenとWatermanの外で待っている時にはよく友達ができた。僕のファン活動の写真はカイリー・ミノーグの記事でもっと見れるよ。
<a name="discovery"></a>
僕はある時、輸入された日本の16bitゲーム機であるセガ・メガドライブに出逢った。そして僕は、次第にメガドライブから今後発売されるゲームソフトにも興味が湧き、情報を求めてロンドン市内の日本書店で雑誌を読むようになった。
当時はインターネットなどなかったので、日本の商品はこういう店でしかGETできなかった。僕がよく訪れていたJapan Centerには漫画、アニメ、アイドルなど、訪れる度に日本文化の新しい側面に出逢える書店だった。
壁一面に貼ってあるカイリーのポスターとメガドライブのゲームの山が写っているこの写真を見ても分かるように、僕の興味が「カイリー」一色から「日本」へと移っていったのは丁度この頃だ。テレビにはマクロスが映っているのもお分かり頂けると思うが、これは僕がロンドンのチャイナタウンで見つけてきた広東語版のものだ。
日本のものだという事を知った上でアニメを見たのはこれが初めてだった。僕はこのアニメーションのクオリティー、ストーリー、BGM、メカ、それと可愛い女の子たちに圧倒され、これを切っ掛けにアニメをもっと見たくなった。
当時はお金を稼ぐために、雑誌から切り抜いた写真をラミネート加工して、カイリーやジェイソンのカードを作って売るなどしていた。
インターネットがない時代には当然YouTubeなんてものもなかったが、日本のテレビ番組を録画したVHSを貸し出している日本の書店をセント・ポールで見つける事が出来た。当時の僕は店のメンバーになる金銭的余裕は無かったが、店を営んでいた女性は僕がどれだけ日本文化が大好きかを知っていたので、ロンドン在住の日本人が見なくなった古い録画ビデオを僕に売ってくれた。録画内容が数ヶ月程古くても僕にとっては大した問題ではなく、とにかく「日本」というものを聞いて、この目で見たかった。
録画されていたテレビ番組はCMも含んでいて、家にいる時は常にビデオを流しっぱなしにしていた。そうしていると、まるで日本にいるかのような気分にさせてくれたからだ。この感覚はCMの時に顕著だった。「なるほど・ザ・ワールド」や「世界丸見えテレビ」などのテレビ番組や、「ひとつの屋根の下」などのドラマも観た。また、外出中にもウォークマンで聴けるように番組の音源をカセットテープにダビングし、常に日本語が頭の中で流れるようにしていた。でも、それでもまだ足りなかった。
自力で日本語を勉強する上で、僕は僕自身に宿題を継続的に課し続けた。この写真はA3サイズの紙に書き込んだ漢字表で、当時はこれが家中の壁に貼り付けてあった。ただ、母はあまりいい顔をしなかった ^^;
学びたい言語を書くということは、それを習得する上で大変重要なことだと感じた。人間は何世紀もの間、書いたり、会話したりするという変わらない方法で言語を学んで来た。インターネットが普及してからかれこれ15年程経ったが、脳は依然として従来の方法で言語を学べるように作られている。語学を勉強できるウェブサイトは数多く存在するが、それに完全に頼り切る事はせず、ペンを使って書いたり、喋ったり、体を動かして程よいバランスを取りながら学ぶ事をオススメする。
何かを記憶しようとする時は、脳にその情報が重要なものか、そうでないかを知らせる必要がある。そうでもしないと、それは潜在意識の奥底へ入れられ、思い出す事が困難になるからだ。
漢字や何か新しい言葉を学ぶ上で、僕が見つけた一番効果的な方法は、後で見つけやすいように単語や漢字にラベルを貼る感覚で、記憶する為の工夫をすることだ。
例えば「look」という意味の「見る」を覚えるとしたら、「Look at this gorgeous Meal!」っていう文を覚えれば、Mealと「見る」は音が似ているので関連付けができて覚えやすい。
本は漢字を覚える為の工夫を幾つか教えてくれるが、例えちゃちな風に思えても、自分で考えて工夫する事が望ましい。人間の脳はこういったちゃちな感覚に遭遇すると脳内で化学反応を促し、より容易に単語を記憶できるようになるのだ。
この去年撮った写真に写っているのはエンジェルと呼ばれているロンドンの場所だ。一時間も待たされた挙句に20台ものバスが連続で来ることで有名な場所で、いつまで経っても道路工事が終わらないことでも有名だ。
少し自力で日本語を勉強した後、僕は誰かと日本語を話したかった。そこで僕は週一、夕方にこのエンジェルで開かれている日本語のクラスに通うことに。
しばらくして、僕は先生に「人生でしたいことのひとつは日本で暮らし働くことだ」と話したら、先生は日本で外国人がそういうことをするのは無理だから、そのために努力するのは忘れるべきだと言われた。
僕はなぜ日本語の先生が生徒にそんなことを言うのか理解できず完全に混乱し、うろたえた。僕の目標ははっきりしていたから、僕のやる気をそいだり夢をあきらめろなんてことを言う人に従うわけがなかった。僕はそのクラスをやめ、誰かと日本語を話せる違う方法を探し始めた。
僕はこの時まで、ご覧の通りたくさんの日本の雑誌を買い集めていた。2次元の女の子と2次元の女の子のものもバランス良く ^^; 僕は最初はPCエンジンは持っていなかったけど、この雑誌の2次元の女の子が好きだったから買うようになった^^;
はじめに日本語を自分で勉強しようと決めたとき、辞書は使わずに、ゲームの英語名を元にカタカナをどう発音するのか解読しようとしました。
僕はカタカナの「ン」と「ソ」が全く同じに見えてすごく混乱していた。「ファミコン」の読み方もはっきりわかってはいたけど、どうしても僕にはそれが「ファミコソ」に見えてしょうがなかった。
ほとんどの雑誌はジャパンセンターで手に入れた。そこでは3ポンド払えばメッセージを貼れる掲示板があって、
「日本語と英語のランゲージ・エクスチェンジ・パートナー求む!
僕は英語で話すのでそちらは日本語で話してください。
興味がある人はダニーまで電話ください。番号は123 4567-8910です。」ということを書いて貼った。
あの時はこうやって自分の番号をメモの上に書いておくことは特に問題なかったんだ。^^; その後、僕のところに電話がきて、何人かの日本人と友達できた。
ある日この雑誌の表紙をジャパンセンターで見かけたとき僕の心臓は飛び上がった。彼女の名前は西田ひかるといって、僕が人生で見た中で一番かわいい人だった!
彼女のことをもっと知りたくなったんだけど、それはつまりもっともっと日本語を勉強しなければならないということだった。彼女は歌手でもあったので、彼女のCDを全部そろえ自分も歌えるようになろうとした。日本のCDの素晴らしいところは、歌詞カードも付いてくるところだ。
ある夕方に、日本語能力検定を受けた後、テストセンターの外でチラシを配っている日本人男性2人がいた。そのチラシの内容とはロンドンのウェストエンドで開かれているランゲージ・エクスチェンジ・クラブについてのことだった。興味深くウェストエンドに向かって、そのクラブに入るとこんな光景を見た。現地の人と日本人が会話し合ったり。
そのクラブはで2人の会計士をしている日本人女性とイギリス人の夫婦によって運営されていた。彼らはこのオフィスを持っていたけど仕事には全てのスペースは必要なかったので、余ったスペースで「アクセル」というランゲージ・エクスチェンジ・クラブを開くことにしたようだ。週に2、3ポンドというとても安い値段で参加できた。写真の中心に写っているのが僕だ。
この頃まで、アニメとマンガに対して燃えるような情熱を抱いていて、これらに関連する何らかの仕事につきたかった。当時イギリスにはManga Entertainmentという会社があって、「攻殻機動隊」や「プロジェクトA子」などのアニメを販売していた。その会社の社長にコンタクトを取って、マンガやアニメ、日本語に対する僕の情熱を伝えてあげた。
社長はこの写真に写っている「マンガジン」というファンクラブの雑誌を創刊することを決め、僕は編集者の一人として執筆することになった。
これはハックニーのドルストンにある「メトロポリタン」という建物で、スタジオに改造された元病院だ。父親はこのメトロポリタンで事業を拡大しようとスタジオを借りた。ちなみに僕はここでカイリー・ミノーグとあった事もある。
父に最も感謝している事は、僕が自分の手で成功を掴み、自分で稼ぐ道を与えてくれた事だ。昔、父には僕が世話になっていた里親に養育費を払ってもらい、時折お小遣いも貰ってはいたが、母と一緒に暮らし始めた大学時代からは自分で自分の面倒を見るようになっていた。あの頃は、大学の学費は政府の補助金で賄われていたので助かったものだ。お小遣いは自分で稼がなくてはいけなかったので、最初の頃はこのメトロポリタンでパートとして父のお手伝いをしていた。
この写真は数年前、イギリスを訪れていた時に撮ったものだ。 父の元で働いている間は靴のデザインと製造工程に関する全ての事を学んだ。デザイン、型の切り取り、縫合や最終工程である甲皮の仕上げ作業も出来るようになった。ちなみにダイアナ妃の靴も作った事がある。
また、ElleやVogueなどのファッション誌とも一緒にお仕事をした事があり、モデル撮影に使うサンプル品を提供し、様々なファッションショーにも参加した。仕事自体は面白かったのだが、自分が人生でやりたいのはこれじゃないというのは感じていた。
日本語学習、アニメ、マンガ、ゲーム、日本人の友人達との交流を通し、僕は益々日本文化に惹かれ、ジャパニーズドリームを掴みたいと強く思うようになった。しかし、このバイトをやっている以上はジャパニーズドリームは掴めなかったので、父親のスタジオを後にした。僕は母親と一緒に住んでいたので、この後、父とは数年間会う事はなかった。
僕が最近作ったサンダルであるブラックロックサンダルの詳細についてはリンク先の記事にて ^^;
父のスタジオを辞めた頃は収入源も途絶え、あまりよろしくない状況だった ^^;
そこで僕はリチャード・スタノウスキというタレント事務所と契約し、アジア系の出演者が必要となった時に呼ばれ、テレビドラマやCM、ドキュメンタリー番組に出演した。
特に印象深かった思い出は、Discovery Channelの花火に関するドキュメンタリー番組を田舎で収録していた際に、複葉機が低速低空飛行で出演者とカメラの前を横切った瞬間だ。僕はその透き通るような青い夜空に映った光景を目にした時、背筋がゾクゾクし、この人生で何かを成し遂げたいという気持ちが芽生えた。
ちなみにこの写真は「レッツ・オシャベリ」という出版物で、イギリス国内の日本人が基礎的な英語フレーズを学ぶ教材だ。僕はこの出版元で、英語を日本語に訳すアルバイトの仕事も見つけた。
当時は、Elephant and Castleにあった大学に通い、ビジネスコースを履修していて、ここの授業料も補助金で賄われていた。
紅花という日本料理レストランでもアルバイトをやっていた。仕事内容は包丁を投げ回して客を時折病院送りにする料理人ではなく、ホールを走り回るウェイターだった。作業と言えば皿運びや皿洗いで、皿を割る事もあった ^^;
紅花を選んだのには幾つか理由がある。その一つは、紅花に沢山来る日本人のお客さん達と日本語で話す機会があったからだ。
もう一つの理由は、日出ずる国へのチケットを買う為の資金を溜めたかったからだ。日本に行って、出来る限り日本文化を吸収するというのが目標だった。
初めて支給された給料は今でも覚えている。タフなスケジュールをこなしても、明細にはほんの数桁しか記載されていなかったが、始めから期待してはいけないのは分かっていた。日本へのチケット代と余分のお金を蓄えるのには一年も要した。そして来日後はイギリスへ帰国し、翌年の日本旅行に向けて再び紅花で働き始めた。
そして遂に、今迄アニメ、マンガ、雑誌、ドラマで見てきた日本に初めて訪れる日がやって来た。電車が成田を出発し、いくつかの小さな町を通り過ぎていくにつれ、僕の心は高鳴っていった。辺りを見渡せば、カタカナ、ひらがなや漢字があっちこっちにあり、自分が日本に辿り着いた事を改めて再認識した。
僕にとってこの旅は、滞在中のほぼ全ての日の出来事を思い出せる程に、とても感動的な時間だった。コンビニの自働ドアのセンサーの感触、天ぷらの味、ジメジメした夏の熱気の匂いや周囲を飛び交う日本語などが僕の全ての感覚をオーバーロードさせた。
幸いイギリスでは沢山日本人の友達が出来たので、日本では彼らの家族の家に泊まらせてもらった。場所は多摩川、埼玉や広島など色々だ。
イギリスに戻った後、部屋の周りにスピーカーをセットし、渋谷で録音した音源を流し、目を閉じた。その瞬間に渋谷に戻った気分になった。
紅花で十分なお金を稼ぐまで、もう一年日本にいることはできないということは知っていた。けれど渋谷の音を聞いているととてもやる気が上がり、日本語を勉強している間、いつもその音を流していた。
この写真に写っているのは僕の最初の机で、壊れたスピーカーにグラス一枚。この時点で僕は何度か日本に行っていた。日本に住み、働くことは実現させないといけない夢だ。壁に貼ってある新宿の黄昏のポスターを見ては、毎日繰り返し自分にこう言い続けていた。
「絶対に僕は日本に行く」
「絶対に僕は日本に行く」
「僕は日本に行くんだ」
日本でのある日、西田ひかるのコンサートの列で待っていると、近くにいた男性に声をかけて自己紹介することにした。彼も僕と同じく西田ひかるのファンなので、話すことがいっぱいあった。その人といい友達になり、彼も自分の友達を紹介してくれた。好きなことで沢山の友達と繋げるのは嬉しいことですね。
そしてなんと、その人と10年後はアマゾン時代でばったり会った。
僕は西田ひかるのことがとっても好きだった。このイラストでは僕と彼女が僕が覚えている東京の街風景で抱き合っているwww。
ひかるに会うことは僕のもうひとつの夢でもあった。とある日の夜、花束を持って新宿の厚生年金会館の外で彼女のコンサートが終わるのを待った。僕はローラーブレードを履いていて、でてきた彼女の車を追いかけて信号で止まったところで追いつき、花束を渡そうと計画した。
でも会館にいたスタッフ等は僕のことに気づき、彼女の車が出てくる直前に彼等に殴られ、車が完全に去るまで僕を地面に押さえつけていた。
ひかるの車が去ってしまってから、スタッフは僕を道の真ん中に放置し、殴られ蹴られた僕はでクラクラしながら立ち上がった。花束はなんとか大丈夫だったので、花束を拾い、ひかるの車が走っていった方向へローラーブレードで追い駆けた。運命よく、彼女の車は信号で足止めされていた。ひかるさんは窓を開け、申し訳なさそうに僕の花束を受け取ってくれた。スタッフが僕を押さえつけたのは彼女の意思ではないと思う。少なくとも僕はそう思いたいな。^^;
Earls Courtに一年ぐらい住んだあと、僕らはもっと安いところに引っ越すことにした。ロンドンのWhite Chapelに友達の家をひと部屋借りた。キッチン、風呂、トイレは共同。
家賃安かったので、写真に写っている後ろにあるパソコンを買うためのローンを組むことができた。1600ポンドくらいかかった!4GBハードディスクのWindows95と56K(256Kだったかな?忘れた)のダイアルアップモデムを手に入れた。僕はこのパソコンで自分のパソコンスキルを身につけた。
パソコンで日本語を使いたかったけど、多言語機能はなかった。ハードディスクをFDiskで分け、英語と日本語のウィンドウズが使えるようにImage Magickをインストールしたり、パソコンのいろんな方面を独学し始めた。
僕が大学卒業後にロンドンで就いた初めて仕事は日本の会社である日本航空だったので満足できる職場でした。おまけにスタッフの何人かは日本人だったので、沢山日本語を話す機会もありました。
とはいえ、僕は未だに日本に辿り着けずにいたので、日出づる国に住み、働くというジャパニーズ・ドリームは決して忘れられませんでした。
僕はそれからネットで仕事を探し始めるようになり、Peoples Firstという求人サイトで目を引く求人広告を発見。仕事は東京に拠点を置き、内容は「東南アジアでのウェブマーケティング。日本語/中国語に堪能でインターネットができるネイティブの英語話者求む」というものでした。
数日後、応募先から面接の連絡が届き、面接官は当時面接を行う為にイギリスを訪れていたネイチャージャパンジェネラルマネージャーのデイビッド・スウィンバンクスになるというお知らせがありました。彼との一時間に及ぶ面接では日本語の科学記事を読むという課題も含まれていました ^^;
ネイチャージャパンは韓国でもマーケットを広げていた為、韓国語は業務上便利だったらしく、デイビッドは韓国語も話せる人材が見つかるとは思っていなかったようです。
一次面接終了後は帰宅し、上の画像のような「ネイチャー韓国」のウェブサイトの簡単なモックアップを夜通しで作成しました。当時、ネイチャーには韓国版のサイトがなく、僕が面接中に韓国向けのサイトの戦略的重要性について触れたのが事の発端でした。作成したモックアップはフロッピーに保存してスクリーンショットを印刷し、デイビッドが泊まっているホテルを人材紹介会社を通して探り当て、資料を彼の部屋のドアの下から差し出しました。
その晩、人材紹介会社からデイビッドがもう一度僕と会いたいという一報が入り、彼が僕の届けものに喜んで頂けた事が分かりました。デイビッドと再び合うと、今度は東京にあるネイチャージャパン本社に一週間に及ぶ面接と試験を受けに来てくれと言われました。また、現段階では航空運賃と宿泊代を出すだけで、採用が保証された訳ではないとも言ってました。後は自分の力で乗り切るしかありませんでした。
僕は東京に向かい、市ヶ谷にあったネイチャーの事務所に一週間通い続けました。事務所では今迄経験した事のない売り上げ予測を立てる課題が出され、理にかなったアルゴリズムを考え出す必要がありました。僕はエクセルを使い、前年度のデータに基づいた売り上げ予測を立てましたが、外的要因は考慮しませんでした。
季節等の要因がどのように売り上げに影響を与えるか分からなかった為、予測は外れましたが、僕は数字を弾き出す為に最善の努力は尽くしました。
しかし幸いな事に、デイビッドは「既に出来る」人よりもむしろ挑戦する意欲のある人を探していたそうです。
ちなみに大学では中々学ぶ事が出来ない科学論文の翻訳作業などもやらせて頂いてました ^^;
試験と面接が詰まった一週間も漸く終わりが訪れ、僕がデイビッドの椅子に座ると彼は「東京に来てくれてありがとう。君がイギリスに帰ったあとに結果を伝えるよ。」と声を掛けてくれました。
すると僕はこの先12時間、飛行機の中で返答内容を心配する自分の姿を想像し、デイビッドに「採用の可否を心配するあまり、手足の指を全部噛み千切ってしまいそうです。可能であればイギリスに戻る前に結果を教えて頂けると嬉しいです ^^;」と打ち解けました。
デイビッドは笑い、週明けに電話すると言い残しました。
僕はホテルに戻ると、ストレスに苛まれましたが、やれる事は全てやったという事だけは確かでした。こういうチャンスのために僕は2-3年前から日本語だけではなく、パソコン技術も勉強し、巡って来たこの機会を使ってベストを尽くしました。僕はどうしても、なにが何でも日本にいなければいけなかったのです。
その夜、そうしているうちに僕は泣き崩れながら眠りにつきました ^^;
そして、雨が降っていた翌日の日曜の朝、ホテルの電話が鳴りました。デイビッドでした。
さて、「安全地帯」について少し触れておきたいと思います。英語では僕は「Safety Zone」と言います。
「安全地帯」とは人が自身の状況に満足している状態であり、日本語だと「ぬるま湯に浸かれる」の表現と同じ意味だと思います。
ネイチャージャパンは働く場所としては最高だった。いろんな社会勉強ができ、日本語のレベルアップもでき、会社にも色んな面で貢献することで、やりがいのある仕事と感じた。
しかしあるとき自分が最も危険すべき状況である「安全地帯に陥ってしまったことに気がつき始めた。
人間が基本的に必要な条件は、「食」と「住」。快適な場所に居るということはこれらの条件を満たしていることになる。自らの情熱を追及したいと思っていても、これらの条件を失うということにつながるリスクが存在する故に、安全地帯を抜け出すことなく、そこに落ち着いてしまう人は世の中にはたくさんいる。
人間の行動の原動力は「必要性」だ。もしそこに必要性が無ければ行動をおこすことはほとんど無い。人が生きていくうえで、必要不可欠な条件が満たされれば、他に必要なものは基本的に何も無いのである。
でも、安全地帯の中にいるということに気がつくことは良いスタートであり、僕が安全地帯からから抜け出し、東京中のリクルーターを訪ね回るきっかけになった。
この安全地帯から飛び出すことが、続く2、3ヶ月の間で僕の人生を大きくに変えることになった。
新たに仕事探しをしている間、ジョブドラゴンというリクルートサイトを見つけた。そこで僕が探していた分野の仕事を選び、履歴書を投稿した。そしてそのジョブドラゴンのボスであるマークさんから会って話がしたいとの電話があった。いざ、そのミーティングに行ってみると、マークが僕のウェブサイトをプリントアウトしたものを持っていたことに僕は驚かされた。「これは本当に君がやったの?」と、マークはデザインのことを聞いていた。上のスクリーンショットが、そのマークがプリントアウトしていた物。すごく恥ずかしかった!
青い物体は全部3D Maxで作られたもので、レイアウトはDreamweaverで作りました。マークとの出会いのきっかけで、オンラインプロフィールを持つことがいかに重要なことかを学んだ。この時から、僕のオンラインプロフィールは僕がキャリアを積み上げていく上で不可欠な存在で、皆さんにも自分のオンラインプロフィールを作成することを強くオススメする。それがただのLinkedinのアカウントだとしてもだ。
そこでCTOのニックさんが登場し、僕が彼らの元で働けるかどうかについて話し合いました。会話の中で僕はジョブドラゴンに携帯サイトがあればサービス利用者が増加すると助言しました。
1999年から2001年の間は貯金に専念するべく、携帯電話を買わないよう妻と決めていました。しかし僕としてはJob Dragonのモバイルサイトを作り、彼らに僕が仕事ができる事を説得したかったので携帯2台を投資として購入に踏み切りました。当時作ったJob Dragonのモバイルサイトのスクリーンショットはありませんが、丁度同時期に作ったdannychoo.comのモバイル版はこんな感じでした。
ニックさんは僕が作ったJob Dragonのモバイルサイトを気に入って頂けましたが、ネットで更なるテストを受けるまでは納得しませんでした。彼はHTMLとDreamweaverのテストが受けられるサイトのリンクを送り、僕はどちらのテストにも合格し、晴れてジョブドラゴンのコンテンツプロデューサーとして正式に採用されました。
僕のことを信じ、日本へ連れて来てくれたデイビッドに辞表を手渡さなければならないのはとても辛かった。マーケティングに関して僕は何も経験が無かったが、デイビッドは僕の可能性を見出していた。
この写真は表参道にあるジョブドラゴンのオフィスの僕の机で撮られたものだ。
ジョブドラゴンに入社して大体3ヶ月後、会社運営が厳しくなり、僕とその他数人を解雇しなければならなくなった。初めての解雇経験だった。ボスのマークさんはそのニュースを伝えるために僕を含めた3人を部屋に呼んだ。マークさんが泣きはじめ、僕もとてもショックを受けた。結果、ジョブドラゴンで働き出して2,3ヵ月後に解雇されるためだけに僕はネイチャージャパンでの安定した仕事を手放したことになる。
でも、人生において起こる全ての事には理由がある。全ての出来事は、その人が人世という度の旅の中で集めていくジグソーパズルのピースだ。
ジョブドラゴンはレクルート会社だったので、業界でたくさんコネクションがあり、僕らをそのままほったらかしにするようなことはしなかった。
僕の履歴書はイーベイジャパン(ebay)やアマゾンジャパン(amazon)などの会社に送られた。たくさん面接を受けたら4つ同時にオファーが来てしまった^^; アマゾンの渋谷オフィスで何度か面接を受け、電話でシアトル本社のいろいろなプログラムマネジャーと話をした。面接を繰り返した結果、上司のアンさん(Anne)が僕がふさわしい人物かどうかを確認するために日本へやってきた。
これがその面接で尋ねられた質問だ。あなたならどう答えるだろう。正解不正解アリで、技術的なことは答えなくても良い。面接を受けている最中であるというだけで、他の人が期待するような答え方はしない。どう答えるだろう?
あなたは現在あるサイトの機能拡張に取り組んでいます。あなたのスタッフは全員それに取り組んでいます。あるビジネスオーナーが(それはマーケティングだったとします)数百万円の売り上げにつながる数千のユーザーの増加を期待できるようなウェブサイトの機能を至急立ち上げるようにあなたに伝えます。あなたはどうしますか?
そのとき以来、僕がアマゾンで面接した人たち全てに同じ質問を使うようになった ^^;
イーベイとアマゾンが僕の採用を決定した後、僕のリクルーターはその両社に物に入札するような競争をさせた。リクルーターが僕年俸のおよそ30%の手数料をもらうことになるので、なるべく多く出してもらうことにした。最終的にはイーベイがより良い条件を示してきたが、僕はアマゾンを選ぶことにした。オークションよりはe-コマースのほうに馴染みがあったからだ。
ジョブドラゴンは僕を雇って、解雇して、新しい場所を用意してくれた。彼らが僕をアマゾンに紹介した上で得たその30%は僕がジョブドラゴンで働いていた3ヶ月の給料より多かった。
ジョブドラゴンのレクルート担当ラスティーさんが僕に「お前はアマゾンのウェブサイトマネジャーになってもらうぞ」と言われた時は、あんまりにも大きい仕事だったので、ラスティーのことだったから、彼の言ったこと信じなかった^^;
ネイチャージャパンを去って数ヶ月後、僕はアマゾンのマネジメントチームのメンバーとなり、アマゾンジャパンのトップであるジャスパー・チェンと共に会社を運営していた。僕はウェブサイトプロダクションを全面的に担当することになり、僕を手伝ってくれる30人のすばらしい部下達を持っていた。
2,3ヶ月前は安全地帯にいた僕だが、世界でも最大のウェブサイトの一つを任され、アマゾンのたくさんの株ももらって、 気がついたらネイチャージャパンでの給料の3倍を稼いでいる自分がいた。
その新たな環境は大きな挑戦だった。アマゾンの技術は驚くべきもので、僕は完全に疎外感を感じていた。僕は人を管理することに向いていると分かるようになり、ベンダーマネージメント、バイヤー、マーチャンダイジング、ファイナンス、リーガル、リテール、マーケティング、ウェブサービス、広報、人事、サプライチェーン / オペレーション、ITなど、たくさんの部門と共に仕事をしていく上で新しい日本の言葉を学び始めた。
僕がアマゾン時代で撮った写真はこの記事で見られます。
<a name="affiliate"></a>
2003年、アマゾンはAmazon Web Service (AWS、アマゾンウェブサービス)を立ち上げた。どんなディベロッパーでもXML形式でアマゾンのカタログデータにアクセスできるAPIだ。AWSで誰でもアマゾンのカタログデーターでオンラインショップを構築することができる。
僕は日本でそのサービスを立ち上げるために、シアトルのAWSチームと一緒に取り組んだ。このスクリーンショットは僕が構築した「ミツカッタ.COM」というAWSサイトだ。アマゾンのカタログデーターを利用し、アマゾンの商品を引っ張って表示している。
アマゾンの偉い人たちはこのサイトを大変気に入ってもらい、日本でそのサービスが公式に立ち上がったときの記者会見で例として使うことを決定した。そのサービスはまだ若かったし、更に良くするためにもっとAWSに携わりたかった。
サーバーサイドキャッシングやSEOなどのようなことを学びだした。僕はアフィリエイトタグを使うことはアマゾンに許された。もし誰かがサイト上のリンクを通して製品を購入した場合、アマゾンから手数料がもらえるということ。
始めは月に6000円ぐらいの電話代を払うお金を稼ぐことができればいいと思っていた。ミツカッタ.COMを最適化するのに必要な情報はグーグル先生から学び始め、学ぶほどより多く稼げるようになっていった。僕はこれらの学んだことをアマゾンにフィードバックし、毎月の電話代を払うどころか、想像していたより更に多く稼げるようになった。
このスクリーンショットでは2800万円という数字が、たった数週間で僕がアマゾンに貢献した売り上げ額だ。そのお礼として、アマゾンから1,857,732円の紹介料を頂いた。
もしこんなウェブサイトをもっと作れば、お金はもっと入る計算となるだろうと思い、大体30個くらいの全て異なったデザインのサイトを作った。
アマゾンウェブサービスはもともと外部向けのサービスだったのだが、内部でも使えることに気づき始め、AWSで運用されるアマゾンサイトのプロトタイプを僕一人で週末の間に作り始めた。普通ならたくさんのスタッフがいても数ヶ月かかるようなことが今一人のディベロッパーが数日間でできるようになっていた。作ったプロトタイプは社内のたくさんの技術者たちの目を開かせるものになった。それはAWSがいかに強力なものであるかを証明するものだった。
ジェフ・ベゾス(アマゾンのCEO)の部下であるディエゴ・ピーセンティーニ氏は僕が作ったプロトタイプを評価し、彼の下でシアトルで働かないかというオファーを受けた。僕はそのオファーを受け、2004年7月にシアトルへと引っ越した。日本のことは大好きだったけれど、妻と僕はこの機会はキャリアに重要な選択と思っていた。
この写真はシアトルのアマゾン本社の外で撮った。
アマゾン本社での仕事は気に入ってはいたが、なかなかシアトルでの生活にはなじめなかった。アメリカの生活になじむようとしましたが、やっぱり僕には合わなかった。時間が止まってしまったようだった。おそらく僕には東京の活気のあるペースに慣れてしまっていたのだろう。
僕がシアトルの生活になじめなかった最大の要因は日本を去るまで日出ずる国を僕がいかに愛していたかに気がつかなかったことだ。シアトルでもずっと日本のテレビ番組を見ていたことを覚えている。ロスト・イン・トランスレーションも何度も何度も見ていた。日本に帰りたかった。
次は何をしようか考えながら長い月日が経った頃、辞表を提出して妻と日本へ帰る準備をしていた。とても辛い決断だった。それは僕たちが日本へ戻るためにここまで上り詰めた地位を捨てるということを意味した。それでも、人生、金銭的に快適になることが全てではない、情熱のままに生きることだ。僕はそれをシアトルで実現できなかった。
アマゾンのアフィリエート収入で一戸建てを目黒で買うことが出来た。娘のあおいちゃんがこの記事でうちを紹介している。
生きている限り、人は誰でも病気に遭遇する。これらの病気のうちいくつかはただの風邪みたいに来ては過ぎ去っていくものだけど、何人かの人はこういう病気にも一生付き合っていかなければならない。そしてさらに何人かの人は病気を患って生まれてくる。
僕の喘息が生まれつきなのかどうかはわからないが(両親は喘息だった) 、子供の頃は吸入器を持ち歩いていた。最近はめったに吸入器を使うことはないけど。生まれつきのものではなかったけどその病気は2008年に脊髄ヘルニアだと診断された。
背中の下の辺りの椎間板の一部が破損して、脊髄から通っている神経に刺さっていた。これは足に痛みを引き起こす。痛みは現れては消えたりしいていたが、一度ひどい痛みが襲ってきたことがあった。脊髄の椎間板は磨り減っていくものだが、どうやら僕のはすでにやばくなっていた^^; このMRI画像を見て分かるように、白くあるべき椎間板のほとんどが暗くなっている。椎間板が磨り減っていくと、脊髄はひどい場合だと歩けなくなるくらいの痛みをもたらすくらいに影響され始める。
その病気だと診断されたとき僕は途方にくれ、いつか歩けなくなるんじゃないかという予測に憂鬱になったことを憶えている。でもしばらく考えたあと、僕は最終的に車イスを使うようになるまでできるだけ一生懸命生き、働き、遊び続けるようと決めた。もし自分に限られた時間しか残されていないのなら、憂鬱になるのに時間を費やすより、 僕はむしろ楽しみたい。
僕は楽天的であり続け、全ての脊髄ヘルニアが歩けなくなるほど悪化するわけではなく、同じ病気にかかった多くの人がリハビリの後痛みを感じなくなったことを知った。僕のリハビリはうまく効きそうにはないようだけど、痛みとともに生きていくことを身につければ特に憂鬱になるほどのことでもない。くしゃみは死にそうなくらいやばいけどね!
まぁ傷ついた舵で船を帆走しているようなものだと思う。今のところ船は大丈夫なようだ。
これはスタッフのクリスだ。MIRAIでは日本の文化を世界に発信するのが仕事だ。現在のクライエントでは、グッドスマイルカンパニー、ブシロード、電通、日本経産省、キングレコード、角川書店、アスキー・メディアワークスなどがいます。ウェブやマーケティングの手伝い、講演やイベントの手配などなど。去年やっていたことは2010年のまとめ記事で見ることが出来、他にやっていることは僕のプロフィールページでリストアップしています。
あ、そういえば、うちのマスコットキャラ末永みらいちゃんにもちょい力入れている^^
今の仕事では毎日いろんな出逢いがあり、その新しい絆は自分の人生を豊富にしてくれます。こちらは東京都立八潮高校の弓道部の皆さんと一緒に収録の後に撮りました。
あなたは一週間の中でどの曜日が一番嫌いですか?
僕は周りの人にこの質問を時折しますが大抵返ってくる答えは「月曜日」だ。
そしてその理由はというと「仕事、学校に戻らなければいけないから」だそうだ。これは一見ありがちな答えですが興味深くもありますね。
もし本人が学校または仕事に行くのが嫌いというのを理由に月曜日を嫌っているのであれば、何故その人は繰り返しその場へ戻るのでしょうか?僕が思うに、そういう人達は自分に適していない職場環境で働いていたり、自分に合っていない分野を学習しているのではないのでしょうか?月曜日だけでなくその他の曜日をより楽しむ為にも違うものを探すべきだと思う。自然と仕事、学校を楽しんでいるのであれば月曜日を嫌う理由に「仕事、学校」を挙げる人はいないでしょう。
このレッスンを教えてくれたのはプロジェリア症候群に苦しむ少女アシュリーを紹介した感動的なドキュメンタリー番組です。 プロジェリア症候群を煩う患者は通常の13倍のペースで老いていき、800万人に1人発症すると言われている難病です。
この症状を負った患者の平均寿命は13歳。当時のアシュリーは14歳の誕生日を迎え、本人は自分がどのような状況に置かれているのかを理解していた。しかし、彼女は死を覚悟しており、今まで人生を存分に楽しめたと言っていました。彼女にとって大切だったもの、それは友達との出会いを幸福である事だった。
僕たちにとっても大切であるべきものはより長く生きる事ではなく、如何に充実した日々を送れるかではないかと思う。
刺殺、ひき逃げや事故など、ニュースで亡くなられた方達の報道をよく耳にする。しかし、僕達、或は当の被害者はそういった死を真剣に考える機会は極めて少ないのではないでしょうか?
家の購入時、不動産会社の仲介人に遺書の書き方について伺った事がありますが、彼は驚いた表情で遺書は大体60歳前後から書くものだと返答した。すべての人間は必ず60歳まで生きるのかよと思った。
当然ながら、人間誰しも寿命まで生きられるという保証はどこにもない。例え地球上で最も「安全」な地域に住んでいて、健康的に過ごしていたとしてもナイフ、銃弾、又は飲酒運転車によって人生が断ち切られる可能性は十分ある。30年後、或は翌朝….と実際死が何時訪れるかを知る術は我々にありませんが、一つ分かっている事は「人は誰しも死ぬ」という事だ。僕達は死が現実であるという事を認識しなければいけない。死の認識、それは皆が何れ集めるジグソーパズルの最後のピースなのだ。
人生はジグソーパズルの様なものです。最初は何処にどのパーツが嵌るのか分かりませんし、必要なピースが何処にあるのかも分かりません。しかし、人生でそれらパーツを一生懸命探し続け、どこに嵌まるかを当てなければいけない事には変わりはありません。あなたに起る全ての出来事はパーツだ。もしもいつもの学校、職場に退屈し、「もしこうであれば…」と自分に問いつめている様であれば、それはそこでパーツを拾い尽くしたサインだ。
現在の科学技術を持ってすれば人を月に送り込む事もできますし、原子を分裂させる事もできます。しかし、人類が未だかつて成し遂げていないものは棚にある「時間のペットボトル」を売買する方法です。時間とはコンビニ等で普通に手に入る代物ではありません。時間は、あなたが生きている限り何時も隣り合わせにいますが、決して見方をしてくれる事はありませんので、使い方には常々注意する必要があります。
人生は短い。本当に短い。若い頃はあまり自覚がありませんが、年を取っていくうちに段々とその事実を気付くようになる。僕は現在30代後半であり、何事もなく老後まで生き長らえるという甘い幻想は持ち合わせていない。皆さんの様に何時死が訪れるか分かりません。しかし、少なくとも好きな事をやりながら死んでいけたという事だけはここで一度申し上げたいと思う。僕は僕に与えられた時間に十分に満足していますし、残りの人生も存分に生きていきたいと思う。皆さんも悔いを残す事無く生きていける事を信じている。
そして僕の残りの人生の全ては日本の文化の素晴らしさを世界の隅々まで浸透させて行きたい。
皆さんは既にお気づきかもしれませんが、僕は月曜日が大好きだ ^o^